鎖国と 4 つの窓口:鎖国までの流れと、オランダだけが貿易を許された理由
※ この記事は上の授業動画の内容をテキストで整理したものです。
この記事でわかること
- 朱印船貿易から鎖国の完成まで、何がどの順番で起きたか
- 同じヨーロッパの国なのに、ポルトガルはだめで、オランダだけが貿易を許された理由
- 鎖国のあいだも開いていた 4 つの窓口(長崎・対馬・薩摩・松前)と、それぞれの相手
「鎖国」は、国を完全に閉じたこと?
「鎖国」と聞くと、日本が国を閉じて、外国とまったくつきあわなかった時代を思いうかべる人が多いと思います。
でも実は、鎖国のあいだも、日本には外国とつながる窓口が 4 つありました。
この記事では、江戸幕府がどうして外国との行き来をしぼっていったのかを、順番に見ていきます。読み終わるころには、次の 3 つができるようになっています。
- 鎖国までの流れを、順番に言える
- ヨーロッパの国の中でオランダだけが貿易を許された理由を説明できる
- 4 つの窓口と、その相手を言える
記事のとちゅうに、問1〜問4 の問いがあります。答えと解き方もすぐ下に書いてありますが、問いを読んだら、まずは自分で少し考えてから読み進めてみてください。
鎖国の前は、日本人が外へ出ていた
「閉じた」というからには、その前は開いていたはずです。まずは鎖国の前を見てみましょう。
少し前の、戦国時代のころを思い出してください。
- 1549 年、ザビエルが日本にキリスト教を伝えました。
- そのころから、ポルトガルやスペインの船が来るようになり、南蛮貿易が行われました。
- この船は、キリスト教を広める宣教師も乗せてきました。
この「宣教師も乗せてきた」という点は、あとでとても大事になります。覚えておいてください。
1603 年に江戸幕府を開いた徳川家康も、貿易を進めました。海外へ渡る船に、朱印状という許可証をあたえたのです。この貿易を朱印船貿易といいます。
多くの日本人が東南アジアへ渡り、東南アジアの各地には、日本人が住む日本町までできました。下の地図では、日本から東南アジアへ向かう朱印船の航路を矢印で、日本町の場所を印で示しています。
つまり、江戸時代の始めごろは、日本人がどんどん外へ出ていたのです。では、ここからどうして閉じていったのでしょうか。
きっかけはキリスト教
貿易はもうけになります。それなのに、幕府は外とのつきあいをしぼっていきました。もったいない気もしますよね。そのきっかけは、キリスト教です。
なぜキリスト教を禁止したのか
キリスト教の信者は、神をいちばん大事にします。幕府から見ると、将軍より神を大事にする人が増えていくことになります。信者が集まって幕府に従わなくなったら、幕府の支配がゆらぐ。幕府はそう考えました。
そこで幕府は、次のように禁止を進めました。
- 1612 年、幕府の領地でキリスト教を禁止し、次の年には全国に広げました。
- 1635 年、日本人が海外へ行くことも、海外から帰ってくることも禁止しました。ここで朱印船貿易は終わります。
1637 年 島原・天草一揆
1637 年、九州の島原と天草で、大きな一揆が起きました。下の地図の印が、島原と天草の場所です。
この地方の人々は、次の 2 つに苦しんでいました。
- 重い年貢
- キリスト教の厳しい取りしまり
そして、天草四郎(本名は益田時貞)という少年をかしらにして立ち上がりました。これが島原・天草一揆です。原因は 2 つある、と押さえておきましょう。幕府は大軍を送って、この一揆をおさえました。
一揆のあと、信者さがしを強めた
一揆のあと、幕府は信者を見つけ出すしくみを強めていきました。
- 絵踏:キリストやマリアの像を踏ませて、踏めない人を信者だとして見つけ出すやり方です。
- 宗門改:一人一人の宗教を調べました。
下の絵は、絵踏の様子です。役人の前で、人が床に置かれた像を踏もうとしています。
なお、絵踏は一揆より前から長崎などで行われていました。一揆のあと、幕府はこうした取りしまりをいっそう強めた、ということです。
キリスト教を広める人は、外国の船に乗ってやって来ます。では、幕府はその船をどうしたのでしょうか。
鎖国の完成
1639 年、幕府はポルトガルの船が日本に来ることを禁止しました。前に見たとおり、ポルトガルの船は、キリスト教を広める宣教師を乗せてきた船でした。
いっぽうで、オランダは追い出されませんでした。1641 年、幕府は平戸にあったオランダの商館を、長崎の出島に移しました。下の地図の矢印は、平戸から長崎への移動を示しています。
出島は、長崎の港に造られた、扇の形をした小さな人工の島です。陸とは 1 本の橋でつながっていました。オランダの人たちは、この島の中で貿易をすることになりました。
このころの将軍は、3 代将軍の徳川家光です。
こうしてできた体制を、のちに「鎖国」とよびます。じつはこの呼び名は、江戸時代の始めから使われていたわけではありません。19 世紀の初めごろから使われるようになった言葉です。
ここで、1 つ引っかかることがあります。ポルトガルもオランダも、同じヨーロッパの国です。それなのに、ポルトガルはだめで、オランダはよかった。なぜでしょうか。この理由は、あとの問3 で考えます。ヒントは、ここまでの話の中にあります。
鎖国のあいだも開いていた 4 つの窓口
では、鎖国のあいだ、日本は本当に外とまったくつきあわなかったのでしょうか。下の表は、鎖国中に、外とのつきあいを「したこと」と「しなかったこと」をまとめたものです。
表を上から見ていきましょう。
- 長崎:出島でオランダと、長崎の町で中国と貿易をしました。
- 朝鮮:対馬藩を通じて交流しました。将軍がかわるときなどには、朝鮮通信使という大きな使節団が江戸まで来ています。
- 琉球(今の沖縄県):薩摩藩が支配しました。
- 蝦夷地(今の北海道)に住むアイヌの人々:松前藩が交易をしました。
反対に、ポルトガルとスペインの船は来させませんでした。日本人が海外へ行くことも、帰ってくることもさせませんでした。
窓口と相手を結ぶ手がかり
どこがどの相手の窓口かは、この単元でいちばんごちゃごちゃになりやすい所です。でも、対馬・薩摩・松前の 3 つは、地図の上の場所を手がかりにすると結びやすくなります。
- 対馬:九州と朝鮮半島の間にある島 → 朝鮮のすぐ近く
- 薩摩:九州の南(今の鹿児島県)→ その南の海の先に琉球がある
- 松前:蝦夷地の南の端
ただし、気をつけることが 2 つあります。
- 近さは、あくまで 3 つを結ぶときの手がかりです。窓口は、近さだけで決まったわけではありません(薩摩が琉球の窓口になったわけは、問4 の解説で説明します)。
- 長崎は、オランダの近くにはありません。なので、長崎にはこの手がかりは使えません。3 つを結んだ残りが長崎、と考えてください。
国を閉じたように見えて、実は 4 つの窓口で外とつながっていたのです。ここまでのことを、問いで確かめてみましょう。
問1 言葉を確かめよう
問1 次の説明にあてはまる言葉を答えましょう。
(1) 徳川家康が海外へ渡る船に許可証をあたえて行わせた貿易
(2) 1637年、重い年貢とキリスト教の取りしまりに苦しんだ九州の人々が起こした一揆
(3) キリストやマリアの像を踏ませて、キリスト教の信者を見つけ出したこと
答え
(1) 朱印船貿易
(2) 島原・天草一揆
(3) 絵踏
【注意】
絵踏=踏ませること(行い)
踏絵=踏ませる像(物)
(1) 朱印船貿易
家康があたえた許可証が「朱印状」です。その朱印状を持った船の貿易なので、朱印船貿易といいます。この貿易で、東南アジアに日本町ができました。
(2) 島原・天草一揆
かしらは、天草四郎(益田時貞)という少年でした。原因はキリスト教の取りしまりだけではなく、重い年貢もありました。2 つをセットで覚えておきましょう。
(3) 絵踏
ここは字に気をつけてください。
- 絵踏(「絵」が先)=踏ませること(行い)
- 踏絵(「踏」が先)=踏ませる像(物)
「踏絵」と書いた人は、物と行いが入れ替わってしまったのです。どちらも同じ場面で出てくる言葉なので、取り違えるのも無理はありません。問いは「踏ませて見つけ出したこと」なので、答えは絵踏になります。
幕府は絵踏とあわせて宗門改を行い、一人一人の宗教を調べました。この 2 つで、信者を見つけ出そうとしたのです。
問2 起きた順に並べよう
問2 次の出来事を、起きた順に並べましょう。
ア オランダ商館を出島に移す
イ 島原・天草一揆が起こる
ウ 幕府がキリスト教を禁止する
エ ポルトガル船の来航を禁止する
答え ウ → イ → エ → ア
【決まり】
禁止 → 反発 → しめ出す → 囲いこむ
・禁止:キリスト教を禁止する(ウ)
・反発:島原・天草一揆(イ)1637年
・しめ出す:ポルトガル船の来航を禁止(エ)1639年
・囲いこむ:オランダ商館を出島へ(ア)1641年
【注意】
出島は、もともとポルトガル人を住まわせるために造った島
→ ポルトガルの禁止が先、オランダを出島へが後
答えは ウ → イ → エ → ア です。
年号を全部覚えていなくても大丈夫です。次の流れで並べられます。
禁止 → 反発 → しめ出す → 囲いこむ
- 禁止:幕府がキリスト教を禁止します(ウ)。一揆の原因の 1 つはキリスト教の取りしまりでした。禁止が先にないと、取りしまりへの反発は起きません。
- 反発:取りしまりと重い年貢に苦しんだ人々が、一揆を起こします。1637 年の島原・天草一揆です(イ)。
- しめ出す:一揆のあと、幕府はキリスト教を広めるポルトガルの船をしめ出します。1639 年です(エ)。
- 囲いこむ:最後に、残ったオランダを出島に集めて、見張りやすくします。1641 年です(ア)。
エとアの順番に注意
いちばん間違えやすいのは、エとアの順番です。「オランダを出島に移してから、ポルトガルを追い出した」と考えた人もいると思います。話のつながりで並べようとする考え方自体はよいのです。実際、その順でも話が通りそうに見えます。
でも、決め手があります。出島は、もともとポルトガルの人たちを住まわせるために造った島でした。
ポルトガルの人がいなくなって空いた出島に、平戸にあったオランダ商館を移したのです。
だから、ポルトガルの禁止が先で、オランダを出島に移したのが後になります。「空いた出島に、オランダが入った」と覚えておけば、もう迷いません。
問3 なぜオランダだけが許されたのか
鎖国の完成のところで出てきた「なぜ?」を、ここで考えます。幕府が何をこわがっていたのかを思い出すのが手がかりです。
問3
(1) 1639年に来航を禁止されたヨーロッパの国はどこでしょう。
(2) 同じヨーロッパの国なのに、オランダは貿易を許されました。それはなぜでしょう。
答え
(1) ポルトガル
(2)(例)オランダはキリスト教を広めず、貿易だけを行ったから。
【覚える】鎖国のねらい 2 つ
① キリスト教を禁止する
② 貿易の利益と海外の情報を、幕府がひとりじめする
オランダ風説書
・幕府がオランダに出させた、海外の様子の報告
(1) ポルトガル です。
(2) の手がかりは、幕府が何をこわがっていたか、でした。幕府がこわかったのは、外国そのものではありません。キリスト教が広まることです。
下の図は、2 つの国を左右に並べたものです。
- ポルトガルの船は、商品だけでなく、キリスト教を広める宣教師を乗せてきました。→ 布教する → 来航禁止
- オランダは、キリスト教を広めず、貿易だけをしました。→ 布教しない → 貿易を許す
幕府は「布教するかどうか」で、許すか許さないかを決めたのです。
答えは「オランダはキリスト教を広めず、貿易だけを行ったから」です。理由を聞かれているので、「〜から」で終えましょう。
「ヨーロッパの国だから」と書いた人は、もう一度問いを読んでみてください。ポルトガルもヨーロッパの国なので、それではポルトガルとの違いになりません。
鎖国のねらいは 2 つ
ここで、こう思いませんか。キリスト教がこわいなら、外国の船を全部断ればよかったのでは、と。でも幕府は、貿易そのものはやめませんでした。ここに、鎖国のもう 1 つのねらいがあります。
鎖国のねらい
- キリスト教を禁止する
- 貿易の利益と海外の情報を、幕府がひとりじめする
窓口をしぼったので、大名が勝手に外国と貿易してもうけることは、できなくなりました。
情報のほうでは、幕府はオランダに、海外の様子を報告させました。これをオランダ風説書といいます。鎖国をしていても、幕府は海外の出来事を知ることができたのです。
問4 4 つの窓口を地図で結ぼう
下の地図には、日本の中の地名は書かれていません。窓口の 4 か所に、A〜D の記号だけがついています。周りの「朝鮮」「中国」「琉球」「蝦夷地」は地図に書いてあります。
問4
(1) 地図の A〜D は、鎖国中の窓口です。A〜D の地名を答えましょう。また、それぞれの窓口でつきあった相手を、下から選んで結びましょう。
相手:[オランダ・中国][朝鮮][琉球][アイヌの人々]
(2) B を通じて、将軍がかわるときなどに日本へやって来た使節を何というでしょう。
答え
(1) A 長崎=オランダ・中国 B 対馬=朝鮮 C 薩摩=琉球 D 松前=アイヌの人々
(2) 朝鮮通信使
【注意】
・地名と相手の両方がそろって正解
・B〜D は「対馬藩」「薩摩藩」「松前藩」でも正解
・A は「長崎」。「出島」だけでは正解にしない
琉球と薩摩藩
・1609年 薩摩藩に攻められ、支配される
・中国との朝貢貿易は続けさせられた → 利益は薩摩藩にも
アイヌの人々と松前藩
・和人との交易は、松前藩が独占
・不利な取り引きをおしつける
・1669年 シャクシャインを中心に戦う → 松前藩に敗れる
この問いは、地名と相手の両方がそろって正解です。相手だけ結べていても、地名が書けていなければ正解にはなりません。
場所を手がかりに、3 つを先に結ぶ
まず、対馬・薩摩・松前の 3 つを、場所を手がかりに結んでいきます。下の地図は、D → C → B → A の順に、窓口と相手を線で結んだものです。
- D は蝦夷地の南の端、松前です。相手はアイヌの人々。
- C は九州の南の薩摩です。その南の海の先には琉球があります。
- B は九州と朝鮮半島の間の島、対馬です。相手は朝鮮。
B〜D は、「対馬藩」「薩摩藩」「松前藩」と、藩の名前で書いても正解です。
残った A が長崎
残った A が長崎で、相手はオランダと中国です。長崎はオランダの近くにはないので、場所の手がかりは使えません。3 つを結んだ残りで決めます。地図では、オランダの船はヨーロッパから来るので、地図の左下の海の端に札を置き、A から線を引いています。
A は「長崎」と書きます。「出島」と書いた人は、オランダ商館の場所をちゃんと覚えていたのです。ただ、出島はオランダ商館があった所で、中国との貿易の場所までは含みません。なので、「出島」だけでは正解になりません。
(2) 朝鮮通信使
(2) の答えは朝鮮通信使です。将軍がかわるときなどに来た大きな使節団で、行く先々で歓迎されました。
つきあい方は窓口ごとに違う
同じ「窓口」でも、つきあい方は窓口ごとに違いました。
琉球と薩摩藩
- 琉球は、1609 年に薩摩藩に攻められ、支配されるようになりました。薩摩が琉球の窓口になったのは、近いからだけではありません。琉球を攻めて、支配したからです。
- それでも琉球は、中国との朝貢貿易を続けさせられました。朝貢貿易とは、中国の皇帝に貢ぎ物をおくって、お返しの品を受け取る形の貿易です。
- 薩摩藩は、この貿易の利益も手に入れていました。
アイヌの人々と松前藩
- アイヌの人々が和人と交易するときの相手は、松前藩だけに決められていました。
- 松前藩はこの交易を独占して、アイヌの人々に不利な取り引きをおしつけました。
- 1669 年、シャクシャインを中心にアイヌの人々が戦いましたが、松前藩に敗れました。
「鎖国」といっても、4 つの窓口で外とつながっていました。そして、そのつきあいの中身は、窓口ごとにずいぶん違っていたのです。
まとめ
- 鎖国は、国を完全に閉じたことではありません。
- 鎖国のねらいは、キリスト教を禁止すること、そして貿易の利益と海外の情報を幕府がひとりじめすることでした。
- オランダが許されたのは、布教をせず、貿易だけをしたからです。
- 4 つの窓口:長崎(オランダ・中国)・対馬(朝鮮)・薩摩(琉球)・松前(アイヌの人々)
鎖国までの流れを、表にまとめておきます。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 家康のころ | 朱印船貿易がさかん |
| 1612年〜 | キリスト教を禁止 |
| 1635年 | 日本人の海外渡航・帰国を禁止 |
| 1637年 | 島原・天草一揆 |
| 1639年 | ポルトガル船の来航を禁止 |
| 1641年 | オランダ商館を出島へ |
「鎖国って、国を閉じたことでしょ?」と聞かれて、「キリスト教は入れないようにしたけれど、4 つの窓口で外とはつながっていたんだよ」と答えられたら、この回の内容は身についています。窓口の組み合わせがあやしくなったら、いつでもこのページに戻ってきてください。
よくある質問
Q. 「絵踏」と「踏絵」は、どう違うのですか?
A. 「絵踏」は、キリストやマリアの像を踏ませること(行い)です。「踏絵」は、そのとき踏ませる像(物)です。「信者を見つけ出すために踏ませたこと」を聞かれたら、答えは「絵踏」です。
Q. ポルトガル船の禁止と、オランダ商館を出島に移したのは、どちらが先ですか?
A. ポルトガル船の禁止(1639 年)が先で、オランダ商館を出島に移したの(1641 年)が後です。出島は、もともとポルトガルの人たちを住まわせるために造った島でした。「空いた出島に、オランダが入った」と覚えると迷いません。
Q. 鎖国のあいだ、幕府は海外のことを知らなかったのですか?
A. 知ることができました。幕府はオランダに、海外の様子を報告させていました。これをオランダ風説書といいます。海外の情報を幕府がひとりじめすることも、鎖国のねらいの 1 つでした。
このシリーズについて
この記事は、シリーズの「基礎」の回です。このシリーズには「基礎」「入試基礎」「入試応用」の 3 段があります。続きの回も、順番に公開していきます。
解答・解説つきの演習プリント(別ページ)
この単元の授業
- STEP 1-1
- STEP 1-2(この記事)
- STEP 1-3(準備中)
- STEP 1-4(準備中)
- STEP 1-5(準備中)
- STEP 2-1(準備中)
- STEP 2-2(準備中)
- STEP 3(準備中)
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