大正デモクラシーとは? 護憲運動・米騒動・原敬の政党内閣を順番にわかりやすく
※ この記事は上の授業動画の内容をテキストで整理したものです。
この記事でわかること
- 第一次護憲運動で、議員と民衆が桂太郎の内閣をたおした流れ
- 吉野作造の「民本主義」の意味と、吉野が求めた2つのこと(普通選挙・政党内閣)
- 米騒動が起きた理由と、原敬の内閣が「初めての本格的な政党内閣」と呼ばれる理由
大正デモクラシーは、どんな話?
「デモクラシー」という言葉を知らなくても大丈夫です。この記事で読むのは、ふつうの人々の声が、少しずつ政治を動かし始めた大正時代の話です。
大きな流れは、次の4つです。
- 1913年 第一次護憲運動 → 桂内閣がたおれる
- 1916年 吉野作造の民本主義 → 普通選挙と政党内閣を求める
- 1918年 米騒動 → 寺内内閣が退陣
- 1918年 原敬内閣 → 初めての本格的な政党内閣
この記事を読み終えるころには、この4つを順番に言えるようになります。ひとつずつ見ていきましょう。
まず、明治の終わりの政治を思い出そう
大正の話に入る前に、明治の終わりの政治を思い出しておきます。ここが分かっていると、このあとの話がぐっと分かりやすくなります。
- 大日本帝国憲法では、国の政治を最終的に決める力、つまり主権は天皇にありました。
- 議会には、選挙で選ぶ衆議院と、国民の選挙では選ばれない貴族院がありました。
- 1890年の最初の選挙で投票できたのは、直接国税を15円以上納める、満25歳以上の男子だけでした。税金をたくさん納める、一部の男性に限られていたのです。
- 1900年に、納税額の条件は10円以上に下がりました。それでも、投票できるのは一部の男性のままでした。(この「10円以上」は、あとでもう一度出てきます。)
内閣のほうはどうだったでしょう。
- 首相や大臣を出してきたのは、主に薩摩や長州の出身者のグループ、藩閥(はんばつ)です。
- 一方で、議員たちは政党をつくっていました。1900年には、伊藤博文が立憲政友会(りっけんせいゆうかい)をつくりました。
- 日露戦争のころからは、藩閥の内閣と立憲政友会の内閣が、かわるがわる政治を担当するようになりました。
今日のカギになる2つの言葉
ここで、この記事でいちばん大事な言葉を2つ覚えておきましょう。
普通選挙:納めた税金の額で、選挙権を決めない選挙
政党内閣:議会で多数をしめる政党が、中心になってつくる内閣
明治の終わりには、普通選挙はまだ実現していません。政党内閣のほうは、立憲政友会が内閣をつくったこともありましたが、本格的なものはまだでした。
「じゃあ、どうなれば本格的な政党内閣なの?」と思った人もいるでしょう。その答えは、この記事の最後のほうで出てきます。
第一次護憲運動:民衆の行動が内閣をたおした
「デモクラシーって、結局何なの?」という疑問に答えてくれる出来事から始めます。
大正が始まった1912年の終わり、長州出身で藩閥の中心にいた桂太郎(かつら たろう)が首相になりました。議会を軽く見るような桂のやり方に対して、議員たちが「憲政を守れ」と声を上げます。
憲政とは、憲法にもとづく政治のことです。中心になったのは、尾崎行雄(おざき ゆきお)と犬養毅(いぬかい つよし)です。
新聞でこのことを知った民衆も、議会のまわりに集まりました。そして1913年、桂内閣は50日ほどでたおれます。これが第一次護憲運動です。
この時代に広がった、民衆の考えを政治に生かそうとする動きを、大正デモクラシーといいます。デモクラシーは、「民主主義」という意味の英語です。
大正デモクラシー:民衆の考えを政治に生かそうとする、大正時代の動き
問1:桂内閣をたおしたのは、だれの、どんな運動?
では、ここまでの内容で答えられる問いです。答えを読む前に、少し考えてみてください。
問1
1913年に、桂太郎の内閣がたおれました。
たおしたのは、だれの、どんな運動ですか。
答え
尾崎行雄・犬養毅らの議員と民衆による、憲法にもとづく政治(憲政)を守る運動
=第一次護憲運動
【注意】「議員」と「民衆」の両方を書く
答えは、尾崎行雄・犬養毅らの議員と、民衆による、憲政を守る運動です。名前は第一次護憲運動です。
議員の名前だけを書いた人も、2人の名前はちゃんと出てきています。そこに「民衆」も足しておきましょう。この問いでいちばん大事なのは、実はそこです。
明治のあいだ、首相を出してきたのは藩閥でした。選挙権があったのも、税金をたくさん納める一部の男性だけです。そんな時代に、選挙権を持たない人も多かった民衆が、新聞で政治を知り、議会のまわりに集まりました。民衆の行動が、内閣をたおしたのです。
では、「民衆の考えを政治に生かす」とは、具体的にどうすることなのでしょうか。ここからは、一人の学者の考えを見ていきます。
吉野作造の民本主義:「主」ではなく「本」
ここで一つ、困ったことがあります。憲法では、主権は天皇にあります。「国のことは民衆が決める」と言ってしまうと、憲法とぶつかってしまうのです。
そこで、大学の先生だった吉野作造(よしの さくぞう)は、1916年に雑誌の論文で民本主義(みんぽんしゅぎ)という考えを説きました。
- 主権が天皇にある憲法のもとでも
- 民衆のための政治はできる
という考えです。
注意:民「本」主義です。「民主主義」と書かないようにしましょう。
では、民衆のための政治をするには、何が必要だと吉野は考えたのでしょうか。
問2:この考えを何という? 吉野が求めた2つのことは?
次の問いは、吉野作造が説いた考えを短くまとめた資料を読んで答えます。資料の文は、次のとおりです。
「主権がどこにあるかは別として、政治の目的は民衆の幸福にあり、政治は民衆の考えにもとづいて行われるべきである。」
ヒントは、「民衆の考えを政治に届けるには、どんなしくみがあればいいか」です。
問2
〈資料〉(一部をわかりやすく要約)
主権がどこにあるかは別として、政治の目的は民衆の幸福にあり、政治は民衆の考えにもとづいて行われるべきである。
・この考えを何といいますか。
・吉野がこの考えにもとづいて実現を求めたことを2つ書きましょう。
答え
考え:民本主義
求めたこと:普通選挙と、政党内閣
民衆の考えを政治に生かすには
・民衆の考えを聞く → 多くの人が投票できる普通選挙
・選挙の結果を政治に届ける → 選挙で多数をとった政党がつくる政党内閣
天皇機関説(美濃部達吉)
主権は国家にあり、天皇は国家の最高機関として、憲法に従って統治する
考えの名前は民本主義、求めたことは普通選挙と政党内閣です。
なぜ「民主主義」ではなく「民本主義」なのか
「民主主義」と書いた人も、「民衆のための政治」という中身はつかめています。あとは「本」の1字に直しましょう。1字しか違わないので、まぎらわしい言葉です。だからこそ、理由ごと覚えてしまいましょう。
理由は、資料の「主権がどこにあるかは別として」という所にあります。「主権は民衆にある」という意味の民主主義を言うと、天皇に主権がある憲法とぶつかってしまいます。だから吉野は、主権の話にはふれずに、民衆のための政治を説いたのです。
なぜ「普通選挙」と「政党内閣」なのか
政治を民衆の考えにもとづいて行うには、まず、民衆の考えを聞く道が必要です。それが選挙です。でも、税金をたくさん納める人しか投票できなければ、多くの人の考えは届きません。だから普通選挙です。
そして、選挙で多数をとった政党が内閣をつくれば、選挙で示された考えが政治に届きます。だから政党内閣です。
- 民衆の考えを聞く → 多くの人が投票できる普通選挙
- 選挙の結果を政治に届ける → 選挙で多数をとった政党がつくる政党内閣
このように、2つの言葉はつながって出てくるのです。
同じころの、もう一つの考え:天皇機関説
同じころ、美濃部達吉(みのべ たつきち)は天皇機関説を唱えました。「主権は国家にあり、天皇は国家の最高機関として、憲法に従って統治する」という考えです。
なお、吉野が求めた2つは、この時点ではまだ実現していません。次は、政治を大きく動かすことになる、人々の暮らしの話です。
大戦景気:景気は良いのに、暮らしは苦しい
「景気が良い」「物の値段が上がる」という言葉は、ニュースで聞いたことがあるかもしれません。大正の日本では、この2つが同時に起きました。
大戦景気と成金
1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まりました(1918年まで)。日本も参戦しましたが、戦場の中心はヨーロッパでした。
- ヨーロッパの国々は戦争で手いっぱいになり、日本の輸出が大きくのびました。
- ヨーロッパからの輸入がとだえたので、鉄鋼や造船などの重化学工業も国内でのびました。
この好景気を大戦景気といいます。急にお金持ちになった人は、将棋の「歩」が「金」になることにたとえて成金(なりきん)と呼ばれました。
物価が上がり、賃金が追いつかない
では、みんなの暮らしも楽になったのでしょうか。実は、物の値段(物価)が大きく上がったのです。それなのに、多くの人の賃金は、その上がり方に追いつきませんでした。
景気は良いのに、暮らしは苦しくなっていったのです。
米騒動:シベリア出兵と米の買い占め
そこへ、もう一つの出来事が重なります。
シベリア出兵
1917年に、ロシアで革命が起き、社会主義の政府ができていました。その影響が広がるのをおそれて、1918年、日本などはシベリアに軍を送ります。これがシベリア出兵です。
革命は1917年、出兵は1918年。1年ずれているので、区別しておきましょう。
商人の買い占めで、米の値段が急に上がる
軍を送るとなれば、米がたくさん必要になります。そこで米を売る商人は、米の値段が上がると見こして、米を買い占めました。
ここは間違えやすいところです。兵が米を食べて足りなくなった、のではありません。見こした買い占めで、米の値段が急に上がったのです。
富山県から全国へ
1918年、富山県の女性たちが、米の安売りを求めて立ち上がりました。この動きは全国に広がっていきます。これが米騒動です。
政府は軍隊も出してしずめましたが、寺内正毅(てらうち まさたけ)の内閣は責任をとって退陣しました。そのあと首相になったのが原敬(はら たかし)です。
問3:流れ図の①〜③に入る言葉は?
米騒動までの流れを、流れ図で確かめます。流れ図は、上と下の2つの流れから始まります。
- 上の流れ:大戦景気で物価が上がる(暮らしが苦しい)
- 下の流れ:(①)を見こした商人が米を買い占める → 米の値段が急に上がる
- 上と下の2つの流れが重なって:富山県から全国に(②)が広がる → 寺内内閣が退陣する → (③)が内閣をつくる
問3
流れ図の①〜③に入る言葉を書きましょう。
答え
①シベリア出兵 ②米騒動 ③原敬
【注意】米が値上がりした理由
✕ 兵が米を食べて足りなくなった
○ 出兵を見こした商人が、米を買い占めた
景気が良い ≠ みんなの暮らしが良い
答えは、①シベリア出兵、②米騒動、③原敬です。
①のポイント:「見こした」「買い占めた」
「兵が米を食べて、足りなくなった」と考えた人はいませんか。軍を送るなら米が必要、というところまでは合っているので、そう考えるのも無理はありません。
ただ、米の値段が上がったのは、出兵を見こした商人が、米を買い占めたからです。テストで理由を書くときは、「見こした」「買い占めた」の2つの言葉を入れましょう。
- ✕ 兵が米を食べて足りなくなった
- ○ 出兵を見こした商人が、米を買い占めた
シベリア出兵の目的は、ロシア革命への干渉で、米のためではありません。それでも、出兵が国内の米の値段を動かしたのです。
上の流れのポイント:もともと暮らしは苦しかった
大戦景気で、もうかった人はいました。でも、物価の上がる速さに、多くの人の賃金が追いつかなかったため、暮らしはもともと苦しくなっていたのです。
流れ図の上の流れと下の流れは、矢印でつながっていません。「物価が上がったから商人が買い占めた」のではなく、別々の2つの流れだということです。もともとあった暮らしの苦しさが、米の値上がりをきっかけに全国でふき出したのが米騒動です。だから、2つの流れが重なった所に米騒動があるのです。
景気が良い ≠ みんなの暮らしが良い
問1とくらべてみよう
護憲運動でも米騒動でも、民衆の動きが、内閣を退陣させています。では、そのあとにできた原敬の内閣は、それまでと何が違ったのでしょうか。
原敬内閣:初めての本格的な政党内閣
原敬は、立憲政友会の党首でした。明治の1900年に伊藤博文がつくった、あの政党です。このころには、衆議院でいちばん議席の多い政党、第一党になっていました。
これまでの首相の多くは、藩閥や華族の出身でした。ところが米騒動のあと首相になったのは、選挙で選ばれた議員の政党の党首でした。
原敬の内閣(1918年)は「初めての本格的な政党内閣」と呼ばれます。はじめに覚えた「政党内閣」の意味を思い出しながら、その理由を考えてみましょう。
問4:「初めての本格的な政党内閣」といわれる理由は?
問4
原敬内閣が「初めての本格的な政党内閣」といわれる理由として、正しいものを1つ選びましょう。
ア 普通選挙で選ばれた最初の首相だったから。
イ 衆議院でいちばん議席の多い立憲政友会の党首で、陸軍・海軍・外務以外の大臣がすべて立憲政友会の党員だったから。
ウ 藩閥の出身で、天皇から信頼されていたから。
エ すべての大臣を、貴族院の議員から選んだから。
答え イ
【覚える】原敬内閣がしたこと・しなかったこと
・した:陸軍・海軍・外務以外の大臣を、立憲政友会の党員にした
・した:選挙権の納税額を、10円以上から3円以上に引き下げた(1919年)
・しなかった:税金の条件をなくすこと(普通選挙)
・普通選挙法は、のちの加藤高明内閣のとき(1925年)、満25歳以上の男子
原敬=「平民宰相」(爵位を持たない首相)
答えはイです。
政党内閣とは、議会で多数をしめる政党が、中心になってつくる内閣でした。
- 原敬は、衆議院の第一党、立憲政友会の党首です。
- そして、陸軍・海軍・外務の3つ以外の大臣を、すべて立憲政友会の党員にしました。
首相もほとんどの大臣も、選挙で多数をとった政党の人です。だから、本格的な政党内閣と呼ばれます。
アを選んだ人へ:普通選挙はまだ
普通選挙と政党内閣はセットで出てきたので、「原敬が普通選挙も実現した」と思いこみやすいところです。でも、このころはまだ普通選挙ではありません。
- 原敬の内閣は1919年に、選挙権の納税額を10円以上から3円以上に下げました。
- 投票できる人は増えましたが、税金の条件は残っています。
- 普通選挙法ができたのは、のちの1925年、加藤高明の内閣のときです。満25歳以上の男子に選挙権が認められました。
吉野作造が求めた2つのうち、原敬の内閣で実現したのは政党内閣のほうです。
ウとエが違う理由
- ウは反対です。原敬は藩閥の出身ではなく、華族でもない、爵位を持たない首相でした。そのため「平民宰相」(へいみんさいしょう)と呼ばれ、人々の期待を集めました。
- エも違います。貴族院は、国民が選挙で選ぶ議院ではありません。政党内閣の中心は、選挙で選ばれる衆議院の第一党でした。
原敬内閣がしたこと・しなかったこと
- した:陸軍・海軍・外務以外の大臣を、立憲政友会の党員にした
- した:選挙権の納税額を、10円以上から3円以上に引き下げた(1919年)
- しなかった:税金の条件をなくすこと(普通選挙)
- 普通選挙法は、のちの加藤高明内閣のとき(1925年)、満25歳以上の男子
まとめ:民衆の声が政治を動かす流れ
最後に、流れをもう一度確かめましょう。自分の言葉で言えるか、ためしてみてください。
1913年 第一次護憲運動 → 桂内閣がたおれる
尾崎行雄・犬養毅らの議員と民衆が、藩閥の桂内閣をたおした。1916年 吉野作造の民本主義 → 普通選挙と政党内閣を求める
主権が天皇にある憲法のもとで、民衆のための政治を説いた。1918年 米騒動 → 寺内内閣が退陣
物価の上昇と、シベリア出兵を見こした米の買い占めが重なり、富山県から全国へ広がった。1918年 原敬内閣 → 初めての本格的な政党内閣
大臣のほとんどが立憲政友会の党員。ただし、普通選挙はまだ。
民衆の声が、少しずつ政治を動かし始めた。それが大正デモクラシーです。一度で全部言えなくても大丈夫です。気になった所は、何度でも読み返してください。
よくある質問
Q. 「民本主義」と「民主主義」は、何が違うのですか?
A. 「民主主義」は、主権が民衆にあるという意味をふくみます。でも、当時の大日本帝国憲法では、主権は天皇にありました。そこで吉野作造は、主権の話にはふれずに、「政治の目的は民衆の幸福にあり、政治は民衆の考えにもとづいて行われるべき」と説きました。これが民本主義です。資料の「主権がどこにあるかは別として」という所が、見分けるときの手がかりになります。
Q. 米騒動で米の値段が上がったのは、兵隊が米を食べたからではないのですか?
A. 違います。シベリア出兵で軍が米を必要とするだろうと見こして、商人が米を買い占めたため、米の値段が急に上がりました。そのうえ、大戦景気で物価が上がり、賃金が追いつかず、人々の暮らしはもともと苦しくなっていました。この2つが重なって、米騒動が起きたのです。
Q. 原敬は普通選挙を実現したのですか?
A. していません。原敬の内閣は、1919年に選挙権の納税額を10円以上から3円以上に下げましたが、税金の条件は残りました。普通選挙法ができたのは、のちの1925年、加藤高明の内閣のときです。原敬の内閣で実現したのは、吉野作造が求めた2つのうちの「政党内閣」のほうです。
このシリーズについて
この記事は、シリーズの「基礎」の回です。このシリーズには「基礎」「入試基礎」「入試応用」の 3 段があります。続きの回も、順番に公開していきます。
解答・解説つきの演習プリント(別ページ)
この単元の授業
- STEP 1-1(準備中)
- STEP 1-2(準備中)
- STEP 1-3(この記事)
- STEP 1-4(準備中)
- STEP 2-1(準備中)
- STEP 2-2(準備中)
- STEP 3(準備中)





